さりげなく大学院の修了制作展をやっているので会場にさらっと顔をだして、中原昌也(元・暴力温泉芸者)氏とモブ・ノリオ氏のトークショーを見にいきました。すきなことやったもんがちやね。とあたりまえ風なことを関西弁で思いました。ちゅうとはんぱにやるのがいちばんいけないね。ひさしぶりに暴力温泉芸者のCDを聴きたくなりました。
その後、そこいらへんの人にきかせたら「夢みたいなこと言ってんじゃないよ、現実はもっとキビシイのだよ若僧。」と、わかったようなことをいわれそうなことを、恐れずぺらぺらと、ごはんたべながらしゃべってたらピコーン、と、ピコーンっと、ちょっとすごい、なんていうか、あたらしい「オレ理論」がうまれてきました。もうちょっと整理できたらここにも書けると思いますよ。しばしまたれよ。そのあいだ映画館で「ネバーランド」でも観ててください。でももうやってないのかも。すばらしい映画だのに。僕は思うに、夢みたいなこといってたってなんにもわるいことなんてないでしょう?夢なんてみたもんがちよ。正確にいうと、最後まで見とおしたもんがちよ。それはとても勇気のいることで、批判されさえしてしまうものだけど。夢っつっても、将来野球選手になりたい、とかそういう意味じゃなくてね。自分の将来像のような。心の像とでもいうのかね。将来僕は、なにかを心から望むことをあきらめてしまってはいないだろうか。夢と言ったのは、そういう将来の”望み”や、”願い”。フォーカスは合わなくても、ぶれるな、その夢。恐れず望めよ。信じて望みきれよ。とね。
たとえ些細なものでも、人生や社会生活にかかわるような大きなものでも。願いをすてることや、望むのをあきらめることは全然えらいことじゃないし、しかたないことでもないじゃん。って、そんなこと言ってる僕を見てガキとか子供とかいうなら、別に子供でもかまわないけどね。僕を子供というその人には”もう”それができないだけ。その人は、無意識にあきらめただけでしょう?ちがうの?ちがうのちがうの?
時として願いや望みをあきらめることが大人だっていうんなら、僕はガキでも若僧でも何でもいい。勝手に呼んでよ。
だってね、願いは強く願えば願う程、かないやすくなるという、これは、法則なのよ。と、思ったのよ。ピコーンと。これはちょっと素敵な話ですよ。耳寄り情報ですよ。
ともかくこの話はこんどまた。ぜひ。