昨日卒業して、もう学生終わり。と思ったばかりの今日は学校にいた。
大量のネガとプリントと荷物と、まだ全然整理できてないし家に持って帰ってもしまうところないしな、どうしよかな、と何度も繰り返し思った。本城さんからもらったプリントが出てきたのでマット切って額装した。
学生やりながら社会にも出ていたし、卒業だからって感慨深いものなんかなぁんにもないや、と吹いて回ってたくせに、いつものベンチに座ってたらさみしかった。
おとといシンスズキドットコム(http://www.shinsuzuki.com/)に、「どうして日本の卒業式は寂しがるものなのか」というような話をきいた。卒業しても普通にみんなとは会えるのに、何故。っていう話。確かにそのとおりだな、と思った。卒業しても大切な人とはそれまで通りきちんと繋がっているものだ。だけども、今日になって気付いたことだけど、”人”とは結局離れないけど”場所”からは離れなきゃいけないじゃん、と思った。空気や温度や肌触りも含めて、この場所にはもう居られないんだなぁ、と、そうやってぼんやりしてたら呼んでもないのにパラパラと友達が集まってきた。やっぱり”場所”ってのは思ってたより大切なものだったんじゃないのかい?



思い出というのは目の前を通り過ぎて初めて思い出になるのだから、足あととおんなじで出来上がった時にはすでに自分の後ろにあるもので、それを今の自分の中に捕まえておこうとしても方法はないのだけど、じゃあどうしたらいいのかな、と考えるときには、思い出をやさしい気持ちで眺めてやるのが一番いい、と、そう考えるようになりました。それは割と最近のことです。