補えるメビウスの矛盾

日記というのは便利なもので、ちょっと前に考えていたことやずいぶん前に自分の周りに漂っていた空気をさささっとこのへんにたちのぼらせてしまえるから便利。あ、いま便利二回言いましたが、過去の日記を振り返って読んでいたんです。忘れているものもたくさんありました。覚えているもののたくさんありました。どれを読んでも心が捕まってしまいます、それらの中からひとつ転載することにしました。一年前の今頃、まだ大学院生をやりながらフリーのデザイナーやカメラマンをやっていたころ、「補えるメビウスの矛盾」というタイトルでこんなことを書いていました。

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仕事を片付けようと思っていたけど、今日は音楽がやけに気持ちに響くので諦めることにしました。こういう日は深層心理が意思を持っています。思い切って身をまかせてみる勇気をもっていたいものです。
夜になるまであれこれと音楽を聴いて、感情に制限をかけないようにして、気持ちが振れ幅を大きくしていくのを黙ってみていると、日頃考えている事が目の前に隅々まで並べられていきます。それを黙ってみています。おだやかな気持ちで、それらを認めていきます。
思い切って傷口に触れてみるように、曲を選んでいきます。自分の中の暗闇にすこしずつ踏み込んでいきます。前よりずっと、痛くない。時間はどこにでもちゃんと流れていて、代謝を繰り返す。そうやって傷口に触れる事にすこしずつきっと慣れていって、そのうち傷のことなんて忘れてしまいます。そうやってすこしずつ乗り越えていくもののようです。
見上げたら雪が降っているように、見上げたら桜が咲いているように、時間は気付かないところを通って流れていくもの。気付いて初めて、そこにもう時間が流れたことを知るもの。季節はいつも知らないうちにやってきて、記憶はいつも知らないうちに消えてしまいます。
僕らはきっと時間には抗えない。それを喜んでみることや、悲しんでみることができるだけ。
音楽や景色や季節や、自分以外のものに感情や考えを引き出されるときには、僕達はひょっとして、ほんとはもともといろんなことを既に知っているんじゃないかと思います。それらのことに気付くきっかけを音楽や景色からもらっているだけで。”風に吹かれている”とかつて言われた「答え」も、それは自分が本当は知っていることに、改めて気付くっていうことでしょう?僕もあなたも他の人たちもみぃーんな、ほんとは思ったよりもずっとずっと偉大にできていて、本当は自分の中にもともと持っている思いや物事に、ただ気付いていないだけだったりすることが、たくさんたくさんあるんだろうなあ、と、こういう日には思うものです。
僕という個性は自然やあらゆる事象の偉大さには負けてしまう、でもそれらの自然は僕という個性の中にある。そんなメビウスの輪のような世界が見えてくるようです。
宇宙は僕の中にあって、僕は宇宙の中にいる。そんな「パワーズオブテン」みたいなことを考えています。時間に流されながら生きていく僕の中にも、見えないけれどちゃんと流れている時間はとても偉大で、悲しい過去やなんかまで、時間が流れれば優しさを持って接することができるので不思議です。悲しい思い出はいつかやさしい思い出に変わってしまうことを思うと、人の思いの構造にはため息がでるほど感心して、それは世に言う「救い」なんじゃないかって思います。僕は、神様は空の上にいるのかと思うとうまく信じる事ができないけれど、もし神様というのが自分の中にいるのなら、うまく信じる事ができそうです。世界にはいろんな種類の神様がいるようだけれど、どんな宗教を信仰するひとたちにとっても、信仰っていう行為は、どこかにいる神様を思うようにして、自分の内面と対話していることなんじゃないかと思います。もし本当にそうなら、人が他人の信仰を非難する必要はなくなるのにね。